卒業Diary.14 立石爽志
トップチームのトップバッターを務めさせていただく、生涯スポーツコース4年、卒業は5年、立石爽志です。
留年が決定していますが、勉学を疎かにしたわけではなく、海外挑戦をしていたからなので、ポジティブな留年とご理解ください。笑
休学していたため後輩たちと授業を受けることが多いのですが、俊太朗、ヤス、〜木立〜(全て生スポ3年)たちは、最近、「爽志くん同期だからな〜」と君付けで呼びながら、同期扱いしてきます。中途半端なので許しません。
さて、では質問のほうに答えていきましょう。
ちなみに質問をくれた村田くんは、生まれた時からの夢であり使命であった公務員に内定しています。真面目で信頼できる男なので、この結果は当然ですね。卒業しても、店の思惑通り、格好つけてデートで高級な「水」を頼む、真っ直ぐな男であって欲しいと思います。
・試合会場に彼女とその家族が応援に来ていて、送り迎えをしてもらうほど仲の良い立石くんですが、彼女のお父さんの好きなところを教えてください。
公務員が頑張って捻った質問をしてきましたねえ笑
がんばりました村田君。
まず、彼女のお父さんお母さんどちらにも共通していますが、本当にフレンドリーで、気まずいな、と思ったことが皆無ですね。娘の彼氏の試合に来てくれて、送り迎えもしてくれるんですから、相当に素敵な人たちです。
お父さんに絞っていうと、特にお酒を飲んでいる時の絡みがちょっとかわいいです。笑こんなこと言っていいのかな笑
僕は家族想いな男ってとてもかっこいいと思っていて、まさにこれが当てはまる人って感じですね。ちなみに僕の父も超絶家族想いなので尊敬しています。
あとはここ大事、腕が太くてかっこいいです!
そんな感じです。株上がったかな笑
・自分とは全く違う人生観を持ち、よくそのことで意見を対立させていた立石くんですが、どんなライフプランを思い描いていますか?差し障りのない範囲で教えてください。
そんなに対立していた記憶はないですが…笑
確かに全く違う人生の選択をしていますよね。公務員のゆうだいと海外に行ったり来たりの僕ですからね笑
ゆうだいの計画的に努力し続けられるところ、尊敬していますよ。
ライフプラン、正直明確に決まってはいないです。
ただ、一度タイでプレーし、暮らしていた経験から、サッカーに限らず、自分の輝ける場を世界規模に広げたいと思うようになりました。
あとは、これまで続けてきたサッカーをやり切るのを優先に考えています。小学生の時からやっているサッカー、当時思い描いていたようなレベルには到達できないかもしれませんが、サッカーと誠実に向き合っていきたいと思っています。
直近の進路としては、大学に籍を置いたままオーストラリアに渡り、語学学校に通いながらサッカーを続けたいと思っています。ちなみにチームは現地で探します。挑戦です。
・仏頂面な反面、褒め上手で人たらしな立石くんですが、人と接する際に大事にしていることがあれば教えてください。
仏頂面かもしれませんが、褒め上手で人たらし…ですか?笑自覚なかったです。笑
自覚がないので、これといって大事にしていることはないですが、敢えて言えば、お世辞も忖度もしませんね。本気で考えて話してくれている人には本気で答えるし、素直に優れている点があれば、それを伝えます。常に思ったことをそのまま伝えているとは思います。
決して、気を使って褒めるとかはないですね。
ところで、村田くんって本当にモテますよね、かっこいいもんなあ。
それでは本題に入っていきます。
「評価」
東京学芸大学に入学が決まり、初めて蹴球部の練習に参加したのは入学前の2月でした。
当時の私は、他の皆もそうであるように、期待に胸を膨らませていたのを覚えています。
中学、高校とJリーグの育成チームに所属していたのですが、中学時代に全国的に通用するFWだった私は、高校時代にはサイドバックで辛うじて試合に出れるレベルとなっていました。
望まないポジションでのプレー、試合にも、出なければ出ないでチームが成り立ってしまうレベルの選手としての価値。
中学時代まで常に自信に満ち溢れ、選手としての存在価値を信じて疑わなかった私は、高校では、出られそうなポジションの他の選手と自身を比べ、自身の優れている部分をせこせこ探している始末。
戦術的な部分、挫折から学んだ人としての成長、という面では大きく成長した自負はありますが、同時に、ギラギラとした勝気な、本当の自分が薄れていくようでした。
その頃からだったと思います。
私はサッカーを好きな反面、なんだか怖くなりました。いや、サッカーを好きかもわからなくなりました。
そりゃそうですよね。常に拮抗したライバルとの小さな差を比べながら、好きでもないポジションをし続ける。なんて辛い日々でしょう。
実際のところ、高校時代、一度チームを辞めようと寮の荷物をまとめ、監督に話に行きました。それでも辞めなかったのは、まだ残っていたサッカーが好きという気持ちだとは思います。でも決して拭えない不安や怖さはありました。
表現しづらいけど、誰かに強制されているわけではないはずなのに、強制的にサッカーをさせられている的な。
こんな私に期待をしてくれている人もたくさんいました。その人たちの星にもなりたかった。
口では、プロになる、と言っていたけれど、正直、Jリーグでプレーする未来も想像できない。
そんなお先真っ暗なサッカーをし続けるのは怖いし、意味も見出せませんでした。
でも頑張り続けました。そしてなんとか東京学芸大学に入学することができました。
合格した時は、本当に嬉しかった。高校3年間の頑張りが少し報われた気がしたんですね。
そして、関東2部という微妙なレベルにあるチームに入り、あわよくばレギュラーになって、
あわよくば、J2下位付近に拾われたらなーっと、自信がないくせに都合のよい妄想をしていました。
そんな感じで蹴球部に入部しましたが
まあ、うまくいきませんでしたね。
同期のシカや海里はすでに試合に絡んでいました。羨ましかったし、関東リーグの応援に行くのまじで嫌だったなあ。
こういう気持ちは組織の一員として本当によくないとは思いますし、当時もそれはわかっていました。
ただ、当時はチームの勝敗なんてどうでもいいし、根底では実力不足だと理解しているくせに、正当な評価ではない、と思い込むようにしていました。
そんな感じでももちろん本気でサッカーはしていましたよ。プロにはなりたいですから。
したくもないポジションをサブチームでやりながら。この頑張りの先に、何かがあるのかもわからないまま。
そんな日々が2年生まで続きました。
(その間、脱臼の手術を2回して長期離脱を2回経験し、CチームやBチームでプレーし、かけがえのない経験をしましたが、長くなりすぎるので割愛します。)
そんな、先が真っ暗なサッカー人生に一筋の光が差しました。
2年生の7月、小学生時のクラブの恩師から連絡があり、「アジアの渡り鳥」として知られる、アジアサッカーの先駆者、伊藤壇さんとお会いすることができたのです。
この時から、私がサッカーをする上での先が見えました。
Jリーグで活躍する未来は想像できなくても、アジアのどこかの国ならプロとしてプレーできる。それが私のサッカーをする活力になりました。
サッカーを頑張った先が明確になったことで、サッカーに対し、ポジティブな気持ちで取り組むことができるようになりました。
しかし、海外でプロサッカー選手になる、という目標ができると、今この時間、部活をしていることが、どうも効率が悪く、無駄なような気がしてなりませんでした。
私が東京学芸大学蹴球部に入ろうと思ったのは、日本でプロになるためであったし、そのチームで関東リーグに出られていない今、私がここでサッカーをする意味が見出せなかったのです。
そして何よりも、今、プロを経験するチャンスがあるのになぜそれを、卒業後の2、3年後まで待つ必要があろうか、と直感的に思ってしまいました。
この判断は自己中心的以外の何ものでもないし、組織の一員としてよい判断ではないのは重々承知でしたが、新たにできた目標へのワクワクが止められませんでした。
そして、様々な方のご協力もあり12月1日、タイへ渡航しました。
タイでの1シーズンは日々が刺激的でした。初めてサッカーでお金を稼ぎ、本当の意味で人のせいにできない環境に身を置けたのはとても大きな経験でした。自身のパフォーマンスが悪ければそれが待遇に直接影響する、それが当たり前の世界だったし、それ故に私の気持ちの弱さも露呈しました。
これまでのように、同じポジションの選手と自分でどこが優れているのかを考えているレベルでは、やってはいけません。この世界では、誰かと比べる、ということよりも、その選手が何点取れるか、どれだけ得点に絡んでいるか、勝利に導くことができるかではっきりと評価されます。
誰かとわざわざ比べなくても、そのチームの外国人枠を狙う選手はごまんといるため、換えがきくからです。
選手の評価も監督どころか、お金を出しているオーナーやその他の役職のよくわからないスタッフが口を出し、理不尽は当たり前の世界でした。
ここには書き尽くすことができない、日本では味わえない経験をしました。
そんな環境から蹴球部に復帰させていただき、少し経った頃、自分の変化に気づきました。
サッカーが怖いものではなくなり、昔のように好きだという気持ちに変わっていたのです。
そして同時に、この部活でラスト1年間、素敵な仲間たちと素晴らしい時間を過ごしたいと思えました。
以前よりも素直に関東リーグを応援することができたし、Iリーグや新人戦もアウェーまで応援しに行くこともありました。恥ずかしながら、以前の私ではあり得ないことです。
蹴球部はサッカーをする集団です。サッカーでのモチベーションが蹴球部に対するモチベーションに直結してしまうのは必然です。
タイでの経験を経て、サッカーに関する考え方が変わったことが、蹴球部への気持ちの変化となって表れました。
ひとからの評価を期待しないこと。
ひとと比べたところで私の何かが変わるわけではないこと。
サッカーはひとからの評価を楽しむものではないこと。
これまでサッカーが怖くなってしまっていた正体。
小学生の頃から、良い評価を得ることが当たり前になってしまっていた私は、それがサッカーの醍醐味なんだと、好きなところなんだと、いつからか勘違いしていたようです。
これらをタイでの1シーズンで見つけられたのは大きな収穫だったと言えます。
サッカーは、いやむしろどんなことも、誰かと比べたり、評価を予想したり期待したところで、何の意味もありません。評価次第でサッカーが好きかどうか変化するなんて馬鹿げています。自分が影響を及ぼせる範囲ではないことはどうしようもできません。
結局のところ、自分が納得できるくらい精一杯頑張って、楽しくサッカーをするに限ります。シンプルだけれどそれが一番。
なんだそんなことかよ、ってなるかもしれませんが、自分が納得できるくらいって相当ハードル高いと思いますよ!
でも、ひとからの評価だけを待っているよりも絶対に楽しいし、自分をどうしたら納得させられるんだろう、と試行錯誤するプロセスや努力は価値の高いものだと思います。
そう考えると、蹴球部内での自身のサッカー選手としての評価の良し悪しで、蹴球部自体を嫌になることもなくなりました。
そして、蹴球部にいる理由が、Jリーガーになるためではなくなりました。
他にも道がある中で、蹴球部を選んでいる理由、ここで出会った仲間たちとサッカーを懸命に楽しむ、そうすると決めました。
大学サッカーをする理由とか、堅苦しいことを考えたらたくさんあるだろうけど、東京学芸大学蹴球部に限って言えば、私はここで出会った仲間を大切に、残り短い時間、サッカーをしたいと思います。
これまで私は評価されることに目を向けてばかりでしたが今は違います。
遠回りしましたが、今やっとサッカーというスポーツを、東京学芸大学蹴球部を純粋に楽しむことができていると思います。
大学サッカーラスト、自分を納得させるくらい頑張って、楽しく終えたいと思います。
そして、ラスト2節勝つしかないです。
関東リーグにトップチームの選手よりも早く来て、太鼓叩いて声張り上げて応援してくれている、そんな素晴らしいチームに悔し涙は必要ありません。
死力を尽くしましょう。
こう見えて、蹴球部が好きなんです。
残り関東リーグ2試合、2連勝して笑って終えましょう。
それでは、最後に、デブ♪ブス♪態度悪い♪の応援歌でみんなから愛されている(?)涼太に質問をして終わりたいと思います。
・上記のように、負の三拍子が揃っている涼太ですが、何を思ってか、自分をかっこいいと言い張っていますね。自身のかっこいいところを教えてください。(私には見当もつきません。)
・以前、我らが蹴球部のマネージャー、〇〇子とお付き合いをされていたようですね。単刀直入にお聞きします。なぜ別れたのですか?復縁の可能性はありますか?(涼太自身が聞いていいと許可しました)
・蹴球部で1位、2位を争う変人ですが、将来どんな人になっていたいですか?夢や目標はありますか?
最後になりましたが、私の大学サッカーに関わってくださった方々、本当にありがとうございました。
今後とも、一サッカー選手として、応援のほどよろしくお願いいたします。
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