卒業Diary.22 原山海里
このたび卒業ダイアリーを担当させていただきますE類生涯スポーツコース4年の原山海里です。今シーズンは副将を務めさせていただきました。
関東リーグを残り1試合残して、東京都リーグへの降格が先週末に決定してしまいました。
チームとして掲げた目標と真逆の結果に、自分自身の力不足をとても感じていると同時に、我々が生まれるずっと前から、伝統ある東京学芸大学蹴球部の歴史を築き、関東リーグという素晴らしい舞台のバトンを繋いでくださった偉大な先輩方、応援してくださる方々に申し訳ないという気持ちでいっぱいです。
残された最後の試合を無駄にせず、未来につながる価値ある1試合にするために、強い覚悟をもって1週間全身全霊で取り組みます。どうか最後まで学芸大学蹴球部を見守り、ご声援いただけると幸甚に存じます。
1年生の時から多くの先輩方の卒業ダイアリーを見てきて、自分はなにを書くのだろうと思っていましたが、あっという間に自分の番が回ってきましたね。
そして、同期の卒業ダイアリーに綴られている熱い思いに、毎回心震わせられます。
学芸蹴球部の後輩のみんなは現4年生の卒業ダイアリーを見てくれていると思いますが、紫志尊々には昨年このチームを引退していった紫紺の戦士たちの素晴らしい卒業ダイアリーが残っています。現1年生は知らない先輩たちだと思いますが、同じ紫の血が流れ、伝統ある東京学芸大学蹴球部を築き上げていった学芸ファミリーの一員です。そして、卒業していった今でも試合を見に来てくれる私の大好きな先輩たちです。時間がある時でいいので是非読んでみてください。
私はみんなのように頭が良いわけではないし、文才も無いので感動するようなブログは書けません。自分自身のサッカー人生を振り返り、都リーグへの降格が決定したいま感じることと私の願いを綴らせていただきます。長く拙い文章で読みづらいとは思いますが、何かを感じ取って変わるきっかけになれば嬉しく思います。
まずは、桃子の質問に答えていきたいと思います。
桃子は同期で唯一のマネージャーでピッチ内外ともに活躍してくれました。学年ミーティングの時にはマネージャーながら積極的に発言してチームを支えてくれました。また、学年関係なく愛されてイジられていましたね。入部当時の頃に比べて大きく成長して今では学芸蹴球部に欠かせない存在になっています。
褒めすぎましたかね?
では、質問に、答えていきます。
Q1.海里といえば誰も思いつかないようなあだ名をつける名人で、新作がでるのをいつも楽しみにしていました。来年からの学級経営の際、児童と距離を縮める上でぜひ参考にさせてもらいたいので、素敵なあだ名をつける極意を教えてください。あと、一番お気に入りのあだ名はなんですか。
んー、ノリと勢いですかね。フィーリングが大事です。雄貴(色摩雄貴/生スポ4年)や瑛介(冨永瑛介/生スポ4年)やエッグマン(江口達也/A保4年)や魁人(鈴木魁人/生スポ4年)の影響で日本語ではない、どこで作られたのかも分からない他の新しい言語にて会話しているためか、謎な言葉ばかり頭に浮かんできます。彼らと密な時間を過ごしてみるのもいいかもしれませんよ。一番のお気に入りのあだ名は「ティグレ(内海大河/B保3年)」です。名前の響きといい、部内での浸透率はナンバーワンですね。過去最高傑作だと思います。
Q2.「ゆっけじゃんすーぷ」や「げ〜」らとともに髪について悩んでいるようですが、女の子の好きな髪型について教えてください。髪型以外にも、タイプや仕草など女の子に求める理想があればぜひ教えてください。
彼らは同士です。ちなみに「げ~」の正しい発音は「っんげぇえ~」です。
女性の好きな髪型ですがあまりこだわりは無く、似合っていればなんでもいいと思います。強いて言うなら外ハネのショートが好きかもしれません。
タイプは好きになった人がタイプです。
ずるいよねこの答え。でもごめん。そうとしか言えないんだよ。笑
次は、えーっと仕草… 理想… 聞くこと多くない?笑
彼女ずっといない人に対して色々聞きすぎです。自分でもよくわからないんだよ。笑
Q3.色摩雄貴選手と入学前からニコイチ兼相棒兼お世話係として一緒にいるイメージが強いですが、そんな彼との一番の思い出はなんですか。また、彼の好きなところを教えてください。
彼とは中学生の時からの知り合いです。中学、高校でライバルとして戦い続けてきました。
中学の時は最後に彼らのチームに勝って全国大会出場を決めました。その試合に彼の姿はありませんでした。そうです。彼は今と何も変わってないんです。その前の試合でレッドカードをもらって出場停止になっていました。大学生になった今も毎年のように大事な試合の時にイエローカードの累積によって出場停止になっていますもんね。
高校では彼のチームに負けてプレミアEAST優勝を奪われました。
そんな彼との思い出を思い返してみると、たくさんありすぎて何が一番の思い出なのか、なかなか浮かばずに困りましたね。
なので、彼と一緒にいて一番笑ったことを書かせていただきます。
あれは、2年前の出来事でした。
まだ若かった私たちは、10月31日に興味本位で渋谷のハロウィンに人生で初めて行くことになりました。思い付きでいくことになったため仮装も何もせずに向かいました。服なんて現地でなんか買えばいいっしょ。といういつものノリです。
渋谷に向かう電車内、彼の顔は歪みっぱなしでした。下半身を抑えじーっとする彼。まだいける!と応援する私。学芸の皆さんなら想像がつくでしょう。本当に私たちの悪いノリです。
そのまま人が溢れる渋谷の街に飛び込みました。しかし、人だらけで身動きも取れるわけなく、渋谷の街にはトイレはなかなかありませんでした。そして、ついにその瞬間がきてしまいました。渋谷の某所です。詳しくは彼本人に聞いてみてください。
その時、彼の顔はつい何秒か前までは鬼のような顔だったのに、無になっていました。
あの顔、あの瞬間は忘れられません。
めちゃくちゃ笑いました。その後無事に服を買い、後輩の、猿、自称イケメン、お家ゴミ屋敷くんの3人と合流して、5人で終電で帰りました。
これが彼との一番の思い出ですかね。
彼の好きなところは、普段はふざけてばっかで、人の服なのに下着を身につけずに着たり、鼻をほじった手でべたべた触ってきたりしますが、サッカーの時だけはとにかく熱く、頼りになるところですかね。思い返していたらなんか色々ムカついてきたのでこの辺にしておきます笑 もう彼のお世話係はこりごりです。
それでは本文に移りたいと思います。
学生としてのサッカーも残すところあと1試合で終わってしまう。ふと今までのサッカー人生を思い返すと、仲間に恵まれた順風満帆なサッカー人生だったなと思う。
5歳から始まった俺のサッカー人生。
小学生の時は上尾大石サッカースポーツ少年団というチームに入った。小学校の友達に誘われたこと、多くの友達が入っていたという単純な理由で俺はこのチームに入りたかった。地域にはもっと強いチームがあり、親からはそういった強いチームに入りなさいと言われていた。やるからには上を目指せということで。
それでもわがままを言い、大石サッカーに入らせてくれと駄々をこねたのを今でも覚えている。駄々をこね続け、何か言われては拗ねる。そんな俺に折れた親から、大石サッカーに入る条件として出された条件は埼玉県大会に出場することだった。
当時確か歴代で1度しか出場したことがなかった気がする。正直厳しい条件だった。
しかし、個性的な仲間に恵まれ、どこにも負けないチームワークの良さで1回戦にて敗退したものの県大会に出場することができた。
中学生の時はクマガヤSCに入った。家から約1時間半かけて通う毎日。
渡された背番号は45人いる中で40番。期待されているすごい奴らは良い番号をもらっていたな。もちろん最初はスタメンどころかベンチに入ることすらなかった。
個の能力がずば抜けている仲間たちに揉まれ、ここで生き残るためには何かしらの武器をいくつか身につけなければならない、そう思わされる日々だった。
幸いロングスローは誰にも負けない武器だった。
しかしそれ以外に俺は足元の技術があるわけではない。
足が速いわけではないむしろ遅い。
圧倒的な高さもない。
どうすれば生き残れるんだ。そう考え続けた結果、「誰よりも声を出して闘う」
「チームのバランスをとれる存在」このような答えにたどり着いた。これが今の原山海里のプレーを作り上げている。
自分が生き残るためのすべを見つけ出し、過酷な日々を乗り越えていき、2年目くらいからスタメンに定着した。ポジションは守備的ボランチ。周りを見れば若い番号だらけ、その中に40番の男がピッチに立っていた。
そしてチームは夏の全国大会の出場はぎりぎり逃したものの、未だかつて出場したことがない冬に行われる高円宮杯の全国大会に出場してクラブの歴史を塗り替えた。また、3年間で4回ある埼玉県大会すべてのタイトルを取り、埼玉県内の公式戦では無敗だったと思う。
ここでもまた、最高な仲間に出会えた。同期で今のところプロが2人、内定者が2人。
みんな大学サッカーでチームの中心として活躍している。いつも刺激をもらって切磋琢磨し合える存在に感謝しかない。
高校は青森山田高校に進んだ。
運よく2年生で全国高校サッカー選手権にロングスロー要員としてだが出場することができ、奇跡的に同点弾をアシストすることができた。結果はPK戦による初戦敗退。
3年生では、サニックス杯2位、プレミアEAST2位、選手権3位という歴代の中でもなかなかない好成績を収めることができた。
高校時代も仲間に恵まれ、後輩に恵まれ、スタッフにも恵まれた。
青森山田での3年間はここでは書ききれないほどのたくさんのことを経験し、学ぶことができた。前回書いた部員ブログのなかで「青森山田のロングスロー」という代名詞をつけられたことについて触れていた。今回の卒業ダイアリーではその部分について書こうと思っていたが、関東リーグ降格という結果からそんなことではなく、もっと他に伝えたいこと、書きたいことを書こうと思い、やめることにした。
ここからは、主に大学サッカーの話。
東京学芸大学では幸せなことに1年目からトップチームでの試合に絡ませていただいていた。しかし、スタメンとして安定して出続けられているのは大学4年生の夏から。
プロサッカー選手を目指している者としてはあまりにも遅すぎるスタート。
要因は様々あったと思う。自分自身の実力が足りなかったことは確か。
他にも、教育実習があったり、2年目、3年目と大きな怪我をしたりと大学に入って多くの壁にぶつかった。
3年目の夏前から痛んでいた右ひざの半月板の手術を11月に行った。
全治約5~6カ月で大学サッカーラストイヤーである4年目に照準を合わせた計画。
先輩たちが引退していって、やっときた俺たちの代。俺はピッチの外でリハビリの日々。
新チームが始動してからの初めての大会の天皇杯予選も応援して、仲間にプレーのアドバイスをすることしかできずめちゃくちゃ悔しかった。でも、4月から始まる関東リーグの開幕戦に出るために今は我慢の時期だとずっと自分に言い聞かせた。
時は経ち関東リーグ開幕戦、俺はピッチの中にはいなかった。ベンチにも。
怪我は3月頃までは順調に治っていた。徐々に走れるようになっていたし、軽いインサイドパス程度ならできるほどに。でも、そこからは全くと言っていいほど痛みが取れなかった。
でも、復帰しないと試合に出られずに前期が終わってしまう。
毎日テーピングで膝をがっちり固めたうえに強力なサポーターを付けながら練習をした。
開幕から5節はメンバーに入れず応援をしていた。5節を終えたころには膝の痛みはありつつもプレーはできるようになっていた。
6節目に初めてベンチ入りを果たし、7節目のホームでの集中応援の試合で、5分ほどだが初めて出場して今シーズン初勝利を挙げることができた。8節目はベンチ入りしたものの出場は無し。
この時点ですでに6月になっており、リーグ戦前期も半分以上終わっていたことから内心かなり焦っていた。6月の2週目には我々学芸大学蹴球部が唯一全国大会に出場できるチャンスであるアミノバイタルカップ(関東大会)が行われる。全国大会出場を1つの目標として掲げている中、3年間で1度も届かなかった夢の舞台に今年こそはと意気込んでいた。
必ずピッチに立って勝つ。
チームを全国大会出場に導いてやる。
対戦相手は先週リーグ戦で負けた相手、2度も負けるわけにはいかない。
強い思いをもって臨んだ。
試合が終わってみれば1-3で負け。
俺はピッチ横のベンチから試合を見る。声をかける。アップをする。
90分という時間はあっという間に過ぎ去った。
全国大会に出場できる最後の希望をつかみ取ることができなかった。
大学に入学してからここまでの約半年間が正直一番苦しかった。
副将として、4年生として試合に出場できなくても、練習やピッチ外の部分でチームのために今まで以上にコミュニケーションをとって引っ張ってきたつもりだ。ほかの部員も例年以上に自ら動き、チームが良くなるために活動していたのをすごく感じる。組織としてとても大事なことだ。
でも、俺の戦場はピッチの中だ。もちろんピッチ外でもチームを引っ張っていく、それは当たり前。
ここまでリーグ戦8試合を終えて、1勝しかできていないチームを勝利に導くのは俺だ。俺が守らなくて誰がチームを守る。仲間たちが復帰を待ってくれている。
次のリーグ戦は8月から再開する。それまでの1カ月間で必ずスタメンの座を勝ち取る。そんな強い覚悟をもって1カ月を過ごした。毎週の練習試合はサブ組での出場だが、常に関東リーグを意識していた。たぶん対戦相手の選手には、なんでこいつ練習試合でこんなに声出しているんだろう。気合い入っているんだろう。と思う人もいたと思う。でもその試合に勝つために、当然の行動だったし、なによりスタメンになるためのアピールのチャンスを逃すわけにはいかない。膝のコンディションも良くなってきていた。
そして、8月。
ついにスタメンとして試合に出場できることとなった。
だが、ここから現在に至るまでの12試合で勝てた試合はわずか2試合だった。
開幕から21試合で3試合しか勝てていない。
チームを勝利に導くどころか、大事な場面での失点に絡んだ。
東海大学戦のコーナーキックからの失点の時に得点選手のマークをついていたのは俺だ。
青学戦の逆転弾。パスを繋ごうとせずクリアすればよかった。
どちらも残留を賭けた直接対決。1番重要な試合と言っていい試合で、俺のミスにより引き分け、負けという結果になってしまった。
こんなつもりではなかった。
俺が勝利に導くんじゃなかった?
俺がチームを守るんじゃなかった?
復帰を待ってくれていた仲間たちと喜び合うんじゃなかった?
大事な時に自分の甘さが出た。
そして今までのサッカーを振り返った。
小学生の時に県大会に出場できたこと。
中学生の時に全国大会に出場できたこと。
高校生で全国3位になったこと。
全て仲間のおかげだ。
どのカテゴリーでも、俺はチームの核ではなかった。
もっとうまい奴がいた。
もっと速い奴がいた。
もっと強い奴がいた。
もっと高い奴がいた。
チームの勝利を決定づけられるような選手じゃなかった。
誰よりも闘って、誰よりも声を出し、ロングスローが投げられる選手。
ただそれだけだった。
最初に俺は書いた。順風満帆なサッカー人生。
でも実際に1位になったことはあるか?
目指していたものは手に入れられたか?
自分の力か?
周りのみんなはこの結果に対して、すごいや強いねなどと称賛してくれる。
でも本当に目指していたものは日本一だ。
この周りの評価に対していつの間にか甘えていた。
いつの間にか自分の中でその結果に納得してしまっていた。
このように、手に入れたいものを何としてでも、何が何でも手に入れるという貪欲さがまだまだ足りなかった。
この自分への甘さが、東京学芸大学蹴球部の長い歴史を崩した。
母校である青森山田高校は先日、全国高校サッカー選手権に23年連続25回目の出場を決めた。調べれば県内の公式戦で359連勝をしている。21世紀になってから1度も負けたことがない。そんな勝つのが当たり前の状況の県大会が一番怖かった。
先輩たちが築き上げた偉大な歴史、記録を崩すことの恐ろしさは想像もつかなかった。
「いつか歴史は崩れる時が来る。でもそれは今じゃない。」
県大会の前に言っていた同級生の言葉に心震わされた。自分たちなら大丈夫と勇気づけられた。
降格が決定してしまった立教戦。
試合が終わった瞬間、とてつもなく深い闇に落ちていく気分だった。
味わったことがない感覚。言葉では表せない。
監督の言葉を聞いているとき、呼吸が苦しくて貧血で倒れそうになった。
現実を受け入れられた今、高校の時の同級生のように、もっとコミュニケーションをとって仲間の緊張をほぐせた、プレーでみんなに勇気を与えることができた。コーナーキックでのヘディングシュートを決められた、失点する前にチームの気を引き締められた。思い返せば後悔しか浮かばない。
来年、関東リーグという舞台でプレーできなくなってしまった後輩たちに、本当に申し訳ないと思っている。プロを目指す者、関東リーグ出場を目指していた者、同期との対戦を楽しみにしていた者など様々な人がいるはず。そんな皆の希望を断ってしまった。
こんな情けない先輩からの願いは、当然だが1年で関東リーグに復帰してもらうこと。
偉そうなこと言うなと思う人もいるだろう。だが、必ず成し遂げてほしいし、成し遂げなければならない。
そのために、今までの考え方をすべて変えろ。
慶應や国士舘、早稲田のように1部から降格してきたチームがすぐ1部に復帰しているのは、考え方がそもそも我々とは違うから。危機感を持っているからだと思う。彼らは1部にいなければならないとチーム全員が思っている。だから2部に降格してきて必死に戦うし、死に物狂いで勝ちを狙う。
学芸大学蹴球部は関東2部という環境に慣れすぎた。そこにいることに甘えていた。
1部から降格してきた彼らとは覚悟に差があった。
だから、来年は手に入れたいものはなんとしてでも手に入れろ。関東2部の座を勝ち取れ。
東京学芸大学蹴球部は関東1部にいなければならない。かつての先輩たちが築き上げてくれた学芸の居場所はそこである。
歴史を崩したのは俺たちだから、来年からの君たちはもう恐れるものはない。
失うものはない。
俺たちを踏み台にしろ。
強くなれ。
この絶望を希望に変えてくれ。
来年に繋げるために、最後の1試合価値ある試合にしよう。
降格が決まったあの日、声をかけた後輩たちは皆、「次の試合がある。」「まだ試合はある。」と言っていた。彼らはもうすでに前を向いていた。こいつらなら大丈夫、そう思えた。
最後の試合、必ず勝たなければならない。
学芸大学蹴球部として、副将として、4年生として、サッカーをしている者として必ず。
そして、ピッチで学芸大学蹴球部の次への方向性、可能性を示す責任が俺にはある。
その責任を果たす姿を、試合に出ることができたら、ともにピッチに立つ者は感じてほしい。
応援してくれる仲間は目に焼き付けてほしい。
次への1歩をみんなで踏み出そう。
やってやろう学芸ファミリー全員で。
俺たちならやれる。
小、中、高そして、大学でもやっぱり最高な仲間たちに出会えた。
仲間に恵まれすぎた学生サッカー。
ありがとう。
同期のみんなには感謝しかありません。入院しているときに見舞いに来てくれたこと、誕生日の時には、多くの人数で盛大に祝ってくれた。バカなことしか言わないこんな俺に付き合って、支えてくれて。みんなのおかげで毎日楽しかった。4年間の苦楽を共にしたこの仲間たちは一生の財産です。
そして、裕二郎に出会えてよかった。君がキャプテンでよかった。どんな時も前を向いて頑張っている君にどれだけ勇気づけられたか、人前で弱さを見せず堂々としていた姿はかっこよかった。でも、時には辛いこと苦しいことをもっとさらけ出していい。みんな裕二郎のこと大好きだし信頼しているから。また、裕二郎と、同期のみんなと一緒にボールを蹴れる日が来ることを楽しみにしています。
先輩方、不甲斐ない結果になってしまいまして申し訳ございません。多くの先輩方からピッチ内外で多くのことを学ばせていただきました。そして、卒業した今でもSNSを通じてメッセージを下さったり、試合を見に来てくださったりと感謝でいっぱいです。
後輩たち、頼りない副将で申し訳ないです。ダル絡みも多くて面倒くさかったかな。でも、副将をやると決めた時に、心の距離感というものをものすごく意識していたから。ごめん言い訳っぽくなったね笑 あえて個人名は出さないようにしたけど、みんなには期待しているし、熱い志をもったやつらが多いからいいチームになれると思う。応援という学芸ブランドをつくりあげたのは間違いなくみんなのおかげだから、もっともっと新たなブランド、誇れるものを築き上げていってほしい。そして、こんな原山海里にこれからも気軽に絡んでほしいと思っています。みんなありがとう。
上尾大石サッカー、クマガヤSC、青森山田高校、東京学芸大学のコーチングスタッフの方々、皆さまのおかげでサッカーだけでなく、人として大きく成長させていただきました。
この出会い、学びは一生の財産です。皆さまの応援が私の力となり、ここまでサッカーを続けてくることができました。ご指導していただきありがとうございました。
家族、ここまで何不自由なくサッカーをさせていただきありがとうございます。
サッカーに出会わせてくれた母さん、プレーの改善点を客観的に見て伝えてくれた父さん、一緒に練習して俺の背中についてきてくれた祐里。祐里の試合を最後に見たのは祐里が小学生の頃かな。大学生になって成長した祐里のプレーを見るのが楽しみだよ。
そんな3人には感謝してもしきれません。
大学4年目半年間試合に出ることができず、不完全燃焼に終わりたくないと未だにプロサッカー選手を目指し、進路が決まっていないわがままな息子に不安しかないと思うけど、なにも言わずに、夢を追う背中を押してくれてありがとう。もう少しだけ頑張らせてください。けじめは自分の中でしっかりつけます。
そして、大好きな二人に一生かけて親孝行させてください。
これからもよろしくお願いします。
明日の卒業ダイアリーは副将として、共に1年間突っ走ってきた江口達也の番です。
常にチームのことを考え、プレーでも最後尾からチームを支え続けた。
みんなに慕われ、いつも前向きな姿勢で活動してきたが、多くの苦悩もあったと思う。
そんな彼の胸の内を明かしてくれるのではと期待しています。
それでは3つほど質問させていただきます。
Q1.学芸のMr.髭ことエッグマンくんですが、今後目指していく髭のスタイル、こだわり、髭への愛をプロフェッショナルに答えてください。
Q2.サッカーと就活をどちらも全力で頑張っていましたが、後輩へのアドバイスをお願いします。
Q3.僕と違って彼女が定期的にできていたEggmanくんですが、彼女ができない学芸のダメンズ達に彼女の作り方を教えてあげてください。
以上です。
長く読みにくい文章だったとは思いますが、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。今までのサッカーを振り返って、今思うことを素直に書かせていただきました。少しでも何かを感じてくれたり、心が変化したりしていただけると嬉しいです。
最後に
あっという間の22年間、それは人生の中でサッカーが充実しすぎていた証拠かな。
今、みんなが学生としてやれているサッカーは本当にあっという間に終わってしまう。引退までまだ時間があると思わないでほしい。明日急にサッカーができなくなってしまうこともある。
今サッカーできていることに感謝して、出せる力を100%だして取り組んでほしい。そして忘れてはいけないのはサッカーを楽しむ心。辛いとき苦しいときはサッカーをやり始めたころ、楽しいと感じる時を思い出して原点に帰ってみてほしい。何でサッカーをしているのか、好きなのか再確認できるはず。
私はこれからも一生大好きなサッカーを愛します。
原山海里
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